河野一郎氏が那須野牧場のオーナーだったことは前回触れましたが、後に、同牧場は、子息の河野洋平氏が新自由クラブを立ち上げる時に、売りに出されて、その収入で新自由クラブが設立されたというエピソードがあります。
河野一郎氏は繋駕(けいが)レースが好きで、繋駕競走を中央競馬会から独立させて、独自の競馬場で、開催しようと考えていました。
ところで、皆さんの中には「繋駕レース」という文字を見て、「それ何のこと?」と、頭の中に「?」がつく人がいるのではと思います。
繋駕レースとは映画『ベンハー』に登場する戦車競技の戦車を思い出してもらえばいいでしょう。騎手が馬の背に跨るのではなく、馬が引く2輪車の上に乗るのが特長です。
繋駕レースは欧米やオーストラリアでは今でも続いていますが、わが国では1971年を最後に姿を消してしまいました。河野一郎氏がもう少し長生きしていたら、現在でも日本で繋駕レースが見られたかも知れません。
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【ちょこっとメモ】
河野一郎(1891-1965)
自民党の実力者の一人。出身である地元神奈川での権力は相当なものだったと言われている。政治家の中では外す事の出来ない部類の(競)馬好きとして有名である。 |
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河野洋平氏は、那須野牧場を恵比寿興行に売り払いましたが、その後も競馬好きは続いたようです。洋平氏の子どもの太郎氏が自分のホームページで紹介している『太郎物語』の中で、こんな記述があります。
「怖い父となんとか話ができるようになるために、太郎は小学生の頃、父の好きな競馬の馬の血統を必死で覚えたりしました。太郎の記憶にある最初のダービーでは、タニノハローモアがマーチス、タケシバオー、アサカオーの三強を押さえて勝ちました。」
河野洋平氏は、衆議院議長になった現在でも、日本競馬振興協会と日本軽種馬協会の会長を務めています。また太郎氏も日本競走馬協会の会長になっていますので、河野家は親子孫の三代に亘って競馬とは深い関係を持ち続けていることが分ります。
つづく
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