『レッドクリフ』つまり『赤壁』の戦いが終わってからの劉備、孔明、曹操、孫権、周瑜のその後はどうなったのでしょうか?曹操は長江の支流の漢水(かんすい)のほとりの襄陽(じょうよう)の地まで後退して、そこで態勢を立て直します。
襄陽はかつて孔明が劉備に『三顧の礼』で迎えられるまで住んでいた隆中の隣の城市です。戦いの勝者の劉備と孫権は、微妙な関係になったものの、表向きは協力関係を続けます。孫権は劉備を丸め込もうと、映画にも登場したじゃじゃ馬娘の妹を劉備に嫁がせます。
周瑜は、まだ劉備が手をつけていない
「蜀」(現在の四川省)の攻略に出発しますが、途中、巴丘(はきゅう)で病の床につき36歳で
生涯を終えます。このとき孫権は28歳。周瑜を頼りにしていた孫権は途方にくれます。
その隙を狙って劉備が「蜀」に触手を伸ばすと、
タイミングよく「蜀」の実力者であった劉嶂(りゅうしょう)から劉備の蜀入りを勧める手紙が届きます。最初は賓客として「蜀」に招かれた劉備ですが、やがて劉嶂はこのままでは劉備に「蜀」を簒奪されるのではと不信感を募らせ、討伐を決意したところを返り討ちにあい、ついに劉備が「蜀」を治めることになります。ここに「魏」の曹操、「呉」の孫権、「蜀」の劉備の三国鼎立時代が始まるのです。
この後、三国は互いに合従連衡を繰り返し、戦いを繰り広げますが、建安25年(220年)、年長だった曹操が66歳で世を去り、長男の曹丕(そうひ)が後を継ぐことになりました。曹操の死とほぼ同時に、劉備が義兄弟の契りを結んだ関羽,張飛が「呉」によって殺され、怒った劉備は孔明の反対を押し切り、「呉」に攻め込みますが、呉軍に破れ、長江のほとりの白帝城(今は『三峡下り』の名所のひとつになっています)に落ち延び、ここで病を得て命を落としました。
劉備は死の直前、見舞いに来た孔明に、「自分が死んだ後は長男の劉禅(りゅうぜん)を守って欲しいが、もし彼が皇帝の地位に値しないと思ったときは、あなたが替わってくれ」と遺言を残します。劉備の恩義を忘れない孔明は劉禅を帝位につけました。時に劉禅17歳。諸葛孔明は43歳でした。
つづく
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