劉備の死後、「蜀」の国作りに専念した諸葛孔明は、建興5年(227年)、いよいよ北方の「魏」を討つべく兵を挙げます。この時、成都に残る劉禅(りゅうぜん)皇帝は21歳。後のことが心配でならない孔明は、留守の心構えを劉禅に説いて聞かせます。これが有名な『出師の表』(すいしのひょう)です。
先代皇帝劉備と自分との結びつきから説き起こし、皇帝としてとるべき態度や留守中、相談相手とすべき臣下の名前を列挙するなど、孔明の劉禅に対する誠意が切々と伝わる名文です。漢文の好きな方はぜひ一読していただきたいと思います。
「魏」との戦いは容易に勝敗が決まりません。7年にわたって戦いが続きます。「魏」の将軍司馬仲達(しばちゅうたつ)は、呉の名将周瑜(しゅうゆ)亡き後、孔明の一番の好敵手になった知将です。
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【ちょこっとメモ】
端午の節句
端午の節句が日本に広まったのは三国志の時代と言われている。もともとの由来は・楚(そ)の国(紀元前770年〜前476年)、の屈原(くつげん)という政治家が陰謀によって失脚し、国を追われ、故国の行く末に失望し川に身を投げてしまう。
彼は正義感と国を思う情が強く、人々の信望を集めていたため毎年5月5日に供養をしたのが始まりとされている。その習慣が形を変え邪気を払う日となり現在へと引き継がれている。 |
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両者、最後の戦いの舞台は渭水(いすい)南岸の高原地帯である五丈原(ごじょうげん)。お互いに総攻撃をかけないまま3ヶ月余りにらみ合いが続き、陣中で病を得た孔明は2 34年8月ついに帰らぬ人となります。孔明54歳の夏でした。蜀軍は孔明の死を伏せて、遺骸を乗せた車を前進させると、司馬仲達が慌てて魏軍を後退させたことから「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」の言葉が生まれました。
ちなみに、邪馬台国の卑弥呼が、「魏」に使いを出して、「親魏倭王」の称号を授かるのが239年です。当時の日本と大陸の間で、かなり活発な交流があったことが窺われます。孔明死後の「蜀」は内政に力を入れて、30年近く国を維持できましたが、263年、ついに「魏」の軍勢によって成都を攻め滅ぼされ、劉備の建国以来42年で幕を閉じます。
勝ち残った「魏」と「呉」はその後も戦いを繰り返し、265年、「魏」から帝位を禅譲された司馬炎(しばえん)が「晋」(しん)を建国、その「晋」が280年に「呉」を攻め滅ぼして、『三国志』の時代は終わります。
『三国志』が映画や小説になって現代人の注目を集めるのは、そこに2千年近く経っても変わらない人間の本質があるからでしょう。私たちの周りにも劉備のようなトップ、孔明のような切れ者の片腕、関羽のような義に篤い同僚がいるはずです。『三国志』の英雄・豪傑の言動を通じて、現代に生きる我々がわが身を振り返る切っ掛けになっています。
「30分で分かる『三国志』」〜完〜
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