私は昭和24年生まれで、今年六〇歳になりました。私を含め、昭和21・22・23・24年の4年間に生まれた人々を『団塊の世代』と呼ぶことは皆さんすでにご存知のことと思います。この名前を付けたのは作家の堺屋太一さんです。
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【ちょこっとメモ】
昭和20年代の遊び
太平洋戦争の記憶がどんどんと薄れていき、子どもたちはいろいろな娯楽・遊びに夢中になった。三角ベースやけん玉・ベーゴマ・めんこ、釘刺しなどを動とすると、紙芝居や少年雑誌など静の娯楽も増えた。代表的なものだけでも「少年」や「少年クラブ」、「野球少年」、「漫画少年」、昭和20年後半になると、「探偵王」に「冒険ブック」などがある。 |
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昭和20年夏に太平洋戦争が終わり、戦地にいっていた兵隊が帰国して、せっせと子作りに励んだ結果、一時期にたくさんの子どもが生まれました。人口ピラミッドを見ると、今でも60〜63歳の人口が大きな塊になっています。
私は東京の杉並で、サラリーマン家庭の三人兄弟の次男として育ちました。この連載でも書いたように大の競馬好き、酒好きで、自分の人生を十分楽しんだ父でしたから、平均的なサラリーマンの家庭の生活とは少しかけ離れていましたが、生真面目な母が、子どもたちに、父親の放蕩振りが及ばないように、防波堤になってくれたお蔭で、私たち兄弟はいたって平和な少年時代を過ごすことができました。
子どもの頃は、近所の原っぱで行う「三角ベース」に夢中になりました。学校から帰るとほぼ毎日、仲間たちと一緒に暗くなるまで「三角ベース」で遊んでました。最初は素手にゴムボールでしたが、学年が上がると軟式のボールを使い出し、グラブが必要になり、小学校3年のときに初めてグラブを買ってもらいました。
新しいグラブが嬉しくて何日もグラブを抱いて寝たことが記憶にあります。グラブといっても、その頃の小学生が買ってもらえるグラブは豚皮製で、皮が薄くぺらぺらで、上級生の投げる速球を受けると、手がジーンと痛くなるようなものでした。
草野球と平行して、2歳年上の兄と近所の町道場に剣道を習いに行きました。その頃、子役の吉永小百合主演の連続ラジオドラマ『赤胴鈴の助』が流行っていました。まだTVは一般家庭にはなく、娯楽はもっぱらラジオと漫画の時代です。
剣道の防具は竹胴が一般的で、ラジオの主人公のように赤胴を付けて剣道をやることは、夢のまた夢でした。東京タワーが完成したのは昭和33年12月、日本経済はまさに高度成長の只中でした。
つづく
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